2019年11月23日、第266代ローマ教皇フランシスコが来日した。長崎や広島での演説、東京ドームで大規模なミサ、合間に様々な集会、などなどをして26日に帰国した。
都内の集会で悩める若者に”「差別やいじめにどう向き合うべきか」“と尋ねられ”「『太っている』と言われたら、『おまえのようにやせてる方がまずいんだ』と言ってやりなさい」“と答えたそうだ。
私が妻に「顔がでかい」と言われた時、「私の顔が大きいんじゃない。君の顔が小さいんだ」と答えたのに似ている。そして私はこう続けた。「君は特に小さいけど、世間一般の人でもまだまだ小さい。皆が私のように顔が大きくなる必要はないが、帽子は顔が大きい人にも似合うように作ったほうがいい」。
この時、妻は私を貶めようとして「顔がでかい」と言ったわけではない。私に帽子があまりに似合わないために、原因の一つとしてシンプルにそう思ったから言っただけだ。
また、妻に「足が短い」とも言われた。これはシンプルに私を貶めようとして言っていた。その時は「足が短いんじゃない。胴が長いんだ」と言った。誰かと比べて長いだとか短いだとかどうでも良く、長い方が優れているとされる価値観にも興味がない。
私の身長は170cm弱だが、160cm弱の妻と腰の高さが同じくらいだ。160cm弱が本来の本来の身長で、胴が10cm長くなって今の身長なのだと考えたら、足が短いのではなく胴が長いのだと言う言葉も理解しやすいかと思う。
ただ、この理論は弱点もあり、椅子に座ると180cm弱の人と同じくらいになるため、本来は180cm弱で足が短くなって今の身長だと考えることができるのではないか、と言われると反論が出来ない。
それはそれとして、今回の来日時の教皇の言葉を使って「これは誰々のことだ」だとか「お前もこの通りにしろ」だとか声高に叫び、相手をコントロールしようとする人が沢山いる。しかし、もし本当に教皇の言葉に感動したのなら、その言葉でもって誰かを非難するのではなく、自分に足りないことや、自分が出来ていないことを考え、反省する材料にだけ利用すればいいんじゃないかと思う。
「教皇がこう言っていた」ではなく、自分の中でその言葉を消化して、教皇の権威を借りずに改めて自分の言葉で話せばいい。なぜ、自分だけが教皇の言葉を理解し「この言葉はこういう意味だ」と相手に教えてあげるべきだと考えるのだろうか。